およそ10ヶ月にわたり和歌山県西福寺石上公望老師のご指導のもと30名の方に足をお運びいただきました。
たとえ一針でも一人でも多くの方に。
そのような思いで会を開いてまいりました。
お袈裟というモノは完成しましたが、これを纏い日々行じていくことで、お袈裟として成仏していきます。この布を纏うことで、私の日々の行いを仏道とさせていいただける。
振り返れば一年前、まだ残雪ある春の山。冬芽をぐっとかたくさせていた樹木の幹をナイフで削いだとき、鮮烈に現れた黄色。葉も花も名前もなくただ冬を耐えしのぶ素朴な樹の内側には生命が活き活きと溢れていました。
道南に自生していたキハダ、ハンノキ、お檀家さんの庭のクリ、境内のウメ、サクラ。そこから染め上げられた色は、何色とも言いがたく、見ていてあるいは触れていて、穏やかな気持ちになります。光のあたる角度によって、あるいは時間の変化で、一言では言いあてることのできない、複雑味なのだと思います。この複雑味こそ“自然”と呼ばれるものであるのでしょう。
しかし、同時に人間が汗をかきながら手探りで色をイメージしその色に近づこうと、狙いをさだめたこともまた重要です。山に自生する植物採取と染色、BOTANさんもsumire さんにお世話になりました。
この自然側からのアプローチと人間側のアプローチが交差したところに仏道が立ち現れる。それは空飛ぶ鳥の飛んだ跡、道なき道のようで、アスファルトの道とは違い、私が歩かないと現れない。
お袈裟を縫う、ということは、人間が人間の効率と利益のみで衣服を作ることではなく、自然を自然のままにあるように、ワタシが、という自我を持ち込まないように“律(古来からのルール)”にそって縫っていくことでした。
間違えて縫い合わせたとき、石上老師から指摘され、「やり直しましょう」という声とともに、ため息にもならない緊張と落胆の雰囲気が何度もありました。
それでも解き、縫い直していく。
そのような姿勢そのものがお袈裟であるから、完成する前の麻布も糸も、キハダもハンノキもすべて一枚のお袈裟となっていく。山川草木悉皆成仏。悉皆、ことごとくみな、とは、あらゆる生命が切れ目なしで一続きであるということ。
言葉で言えば容易いですし、仏教とはそういうものか、と本を読めば書いてありますが、それでは本当のところは伝わることがない。
お袈裟を縫う会に足を運んでくださった方の中に、「お寺でほんとうのことをやるようになったら行きますよ」と何年も前におっしゃっていた方がいました。その方の家にはお寺にしかないような禅の書物が山のようにあり、言葉では私以上に仏教について知っていたと思います。
大切なご家族を亡くされていた方でもありました。
その方が、“ほんとうのこと”だと感じ、お袈裟に携わっていただいたのが心に残っています。
仏の教えの本当のところは、言葉による頭の理解だけではなく、じっさいに我が身を持って実践するところにあります。
では、何を。
善き習慣を。
善き、とはワタシを持ち込まないということ。
善き習慣を日々淡々と勤め上げる。
今回はお袈裟を縫う、ということでしたが、坐禅でも掃除でも、顔を洗う、食事を調える、なんの特別なところもない“日常”に心を運んでいく。
そこに“律”あるいは“規矩”というフィルターをかけることで、私という煩悩のかたまりがあぶりだされ、善き習慣としての行によって手放しにされていく。
この度のお袈裟を纏い晋山(しんさん)いたします。
晋山とは住職として就任するということ。
今回のお袈裟を縫う会を通してたくさんの方と仏の教えを分かち合うことができたことを嬉しく思っています。
この度お袈裟に関わってくださったみなさま、気にかけてくださったみなさま、何より裁縫の苦手な私の無茶をそばで支えてくれた妻に感謝🥲しています。
ありがとうございました。