葬儀から帰ってくると住職が遠くで作務をしているのが見えた。
お参りがつづいていた後だったので、
見て見ぬふりをしようかと思ったが、
境内のベンチに両手の荷物を置き見に行ってみる。
墓地と本堂との間の道に、コンクリートの平板を並べ歩道を作っていた。
数日前から、コンクリートの平板が40枚ほど届き裏庭に積まれていたので、まさかとは思っていたが、一人でもくもくと作業をしている。
連日の雨の合間の晴れの一日。
腕と顔を真っ赤にしてコンクリートを運び砂を敷き平衡をとり並べていく、たんたんと。
「手伝いますか」
と聞くと、
「ああ」という。
部屋に戻って着替えて一緒に平板を運ぶ。
(何もこんなお参りの多い、お盆の準備の忙しいときでなくとも…)
と心の中でつぶやくと、
「更に何(いず)れの時をか待たん」
という典座(台所担当)の和尚の声が聞こえてくる。
800年前、道元禅師が中国で修行していた時に出会った、
用(ゆう)という老和尚の言葉。
用典座は杖をつき、頭には笠さえかぶらず、
太陽の照りつける日に汗を流しながら、
仏殿の前で海藻を干していた。
道元禅師は近寄って尋ねた。
「おいくつなのですか?」
「68歳」
「なぜそんなお年で…下役の人にさせたらどうですか?」
「他人のしたことは自分のしたことにならない」
「ではなぜ、こんな暑い日に敢えてするのですか?」
「海藻を干すなら暑いときにやらないと。今やらないでいつやるのか」
(更に何れの時をか待たん)
何度も心に反芻しながらのコンクリート作務でした。