供物のことで悩んでいます。
今日から彼岸に入りお墓や納骨堂にお参りの方が来られます。
お花やお菓子、お供物をお供えして、今は亡き大切な方に、
ご自身のいのちのつながりであるご先祖様に手を合わせて帰られます。
雪が残り地面がぬかるむなか、お参りに来られるその姿は尊いです。
お供物とはそもそもなんなのでしょう。
現在広徳寺では、供物を中心としたお寺のフードロス削減、また、必要な方に食料品などの物資が届くフードドライブの活動を進めています。
お参りに来られた方がお供えするものは大切な方への贈り物ですからないがしろにするわけにはいきません。
しかし、お彼岸やお盆になるとお菓子やお供物の大半はお寺でいただくことができず、また、フードドライブすることが難しく廃棄されてしまうものもあります。
世界的にもSDGs、貧困をなくそう、と叫ばれている中、供物をどうにかして必要な方にめぐらすことはできないか。
そのようなことを考えることが多い今、お供物とはそもそもなんなのか、考えさせられています。
法事の際には、「供養する仏さまの分だけお供え餅を上げてください」「積み団子は一対で上げてください」「サン餅を上げてください、お菓子、果物を…」とお伝えしますが、それはもともと、一昔前は(戦前戦後)そういうものが普段食べることのできない特別なものだったからです。
その時代は、供物を準備するのも一人ではなく、家族、親戚、近所の方で協力して、お餅をつき、団子をこね積み上げることをしました。
時間をかけ、心を込めて、普段口にすることができないものをお供えし、お勤め終わって、みんなで分けていただいた。
でも今は「時短」の世の中。
とにかく合理的にものが進み、できればお金も時間も労力をかけずにすませたい世の中ですから、供物の内容も形骸化して、供物の準備もお菓子屋に頼んでお仕舞い、という方も多いように感じられます。
しかも、上げられたものは現代の私たちが食べようと思っても、あまり嬉しくないものばかり。
「積み団子は塩ふって捨ててしまう」という声も聞こえます。
供物は本来、大切な方を思い、心を込めて手作りし、あるいは普段は食べる機会がないけれどこの時だからと買って準備して、下げた後「やったー!」と故人と共に家族が喜んで食べるものであるべきものです。
供物は本来、私たちにめぐっていくものです。
それなのに、スーパーではお彼岸となると「お彼岸セット」という名で、下げてもあまり嬉しくないものが並んでいます。
どうにかならないものか。
そのようなことを考えているお寺の人の活動も最近聞こえるようになりました。
昨日の北海道新聞にも、大安寺(室蘭市)副住職の岡部良道さんが、ノースファームストック(岩見沢市)の加工品を供物セットとして販売するという活動が紹介されていました。
また、その活動も一カ寺だけではなく、上士幌町や鹿追でも実践されているそうです。
「供え物 無駄なく 保存利く食品 一定期間後に寄付【上士幌・鹿追】」
http://www.hokkaido-nl.jp/article/21096
非常に興味深く、はげみになる活動です。
お供え物は、
- 大切な方を思い、心を込めて準備したもの
- 亡き人が嬉しいもの
- お供えした人があとで食べて嬉しいもの
このような基準を一つでも満たしていれば(もちろん肉魚以外ではありますが…)どんな食べ物でも供物になります。
そして、できれば保存のきくものであれば、フードドライブして必要な方にお渡しすることも可能です。
どうぞ、このお彼岸の時期に、お供物について考えてみてはいかがでしょうか。