【帰家穏坐】
::坐禅会の茶話会より::
今日は坐禅会。
早朝のような静けさのもと、
20分を二回、坐りましたよ。
「いつもと同じに座りました」
そのように感じられたといいます。
今回で4回目となる参加者です。
坐禅をしても、
ヨガをした後のような気持ちよさもないし、
ジョギングした後のような爽快感もない。
なんだかつかみどころのないものです。
つかみどころがないから、
充実感もえがたいし、
「そうかこんなものか。坐禅を体験した」
と、それで終わる人もいる。
じっさい、
坐禅をして見違えるように何かが変わったり
(後光が差したりww)
すれば納得するところもあるのでしょうが、
それがない。
では、何のために坐禅をするのか。
この問いかけは、
そのまま
じゃあ、何のために生きているのか。
そのような問いかけにもなる。
夜寝る前、電気を消したすぐ後、
仰向けになって天井を見ると、
次第に目が慣れてきて、
ぼんやりと暗闇が見えてくる。
そんな時に、ふと感じる
「あれ、何で私はここにいるんだろう」
という感覚。
その素朴な思いが恐ろしく感じることがある。
心臓の音がみょうにリアルで、
後戻りできないような感覚。
仕事をしていたり、
家事に追われたり、
趣味に没頭している時には、
そういう感覚から離れ(忘れ)
目の前の物事を処理することで、
充実感のようなものを得て
暮らしている
ことが多い。
でも、ある坐禅人はそれを
「オモチャアソビ」と言った。
忙しい、忙しいと人間が言っているほとんどは
アソビ。
そうしたアソビから離れ、
生きているナマの私自身に戻る。
これが坐禅しているということ。
お寺に一歩でも踏み入れれば、
そこには男も女もなく
子どもも老人もなく
社長もヒラもない。
生きている私自身に戻る。
それを仏教では
仏といいます。
仏とはどこか遠くにあるものでも、
木で彫った仏像でもなく、
足を組み、手を結び、姿勢を正した
私自身。
その私は「ここ」以外のどこにもいない。
どこにも行けないんです。
その事実に正面から向き合い
坐りこむ。
死を宣告された人の見える風景は、
どんなものであったとしても
美しく見えると聞きます。
坐禅での一呼吸一呼吸は
死ぬ間際の最後の一呼吸と同じ。
生まれた赤ん坊のオギャーと泣く一瞬前に吸った息と同じ。
坐禅を通した風景もまた、
いのちとして
キラキラと輝きはじめます。