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握っているものを手放す

【自分が今、大切だと一生懸命に握っている、その手をもう一度開いてみて】
::5月の坐禅会の茶話会では::
今日は6人の方が坐禅に来てくれました。
一人はアメリカ人でちょっと国際色。

坐禅が終わった後に、
初めて坐禅に挑戦した方に
感想を尋ねると…
=余計なことを考えてしまう=
「坐禅中に、余計なことを考えてしまう… (考えないようにしようと思っても)”余計なことを考えてしまう”ということを考えてしまいます」
正直な感想だと思います。
坐禅というと、「無」になろうとか、
頭をカラっぽにしようとか、
そういうことに心を運んでしまいますが、
人間の頭というのは、
眠っている時ですら
頭をフル回転して夢まで見せてくれるくらいですから
カラっぽにはなれません。
カラっぽになった時は死んでいる時くらいでしょう?
おそらく。
では、いわゆる「無」というのはどういうことかというと、
「手放す」
ということ。
頭の中で握ったその手を開く。
坐禅していたら、電車が通る音が聞こえる。
「あ、電車だ」
その瞬間に、その考えをフッと手放す。
通り過ぎるのを観察する。
もし、そこで、その考えを握ってしまうと、
「あ、電車だ」
から、
「あれは函館行きかな?」
から、
「家帰ったら何しよう」
「あ、明日から月曜でまた仕事だ」
「あ、明日までに文章作っとかないと…」
「そういえば、この前のテレビ番組…」
脳細胞は一瞬でピュピューンと、
私たちをどこかへ飛んで行かせてくれます。
気づけば、自分は何してんだっけ。
これではいけない。
「あ、電車だ」と思ったら。
それで終わり。
それ以上追わない。
もう、電車ともいかず、
「あ、音…」くらい?
(でも、「音」から「電車」への認識はすぐだよね)
それでも、
手放しても、すぐまた、新しい思い・考えが
湧き出でてくる。
人間の頭からいつも何か湧き出でている。
だから、フッフッと手放し「続ける」。
何かを「握る」ことに慣れている私たちですが、
「手放す」ことには意外と不慣れです。
茶碗やお箸ばかりを握るのが人間ではありません。
知識や地位・名誉、評判、権力、財産、考え方、感じ方…
何かを「握る」ことは人間がどうしても
してしまうことかもしれませんが、
握って「放さない」
「放すことができない」
ここに、苦しみの根っこがあるようです。
自分が今、大切だと一生懸命に握っている、
その手をもう一度開いてみて、
いったん手放してみる。
それがなくても、
確かにここにいて、
ちゃんと生きている自分の姿に気づく。
坐禅で行い、
目指しているところです。

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