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わからないを、する

日常的に見慣れていると思っていても、秋日の澄んだ早朝、
朝日に照らされる駒ケ岳山頂の美しさは言葉になりませんでした。

スマホで調べれば、AIに聞けば何でも知ることができる。またたくまに、正確な情報を、大量に、しかも整理されて。

勝手がいいので、利用している人も多い。
かくいう私もその一人なのですが…「なるほど!」とわかったつもりで、いざ他人に説明しようとすると、言葉が出てこない。自分の言葉に落とし込まれていないから説得力がない。

坊さんとして話しするようなときも、自分の肚の底から湧きあがったものしか他人に届かないと常々感じています。

昔と違って、便利に何でも知ることができる時代、今は肚の底に「わからない・理解できない」ことを納めておくことが苦手なんだなと思う。

しかし人間にとって「わからない・理解できない」はむしろ普通のことで、「全部わかった」と思ったときは勘違いや思い込みであることの方が多い。

最愛の人が逝ってしまう。体の不調、病、年齢とともに一日にできることが限られてくること…。人間に起こることのほとんどは、受け入れがたく、わかりえない。

「わかった」ことを積み上げていくことも大切ですが、同時に、「わからないこと」を肚の底に納め、練り上げていく、そのようなところに人間の深みがにじみ出て、人への優しさへと転じていく。

禅では「わからないこと」を不会(ふえ)といい、むしろ大切なこととして伝えられています。

不確かなものを不確かなままに、確かに受け止めてゆく。そういう姿勢、習慣を坐禅といい、広く勧められる由縁でもあります。

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